"英語は最強の言語です."
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読み込みチャイムが鳴るまで 5秒ほどお待ちください。 アメリカ国務省2004年報告「人身売買で悪質な国日本」 アメリカ国務省2008年報告クリックしてご覧ください。(H21.6.5) |
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「解雇・派遣労働者・パート労働 者」が社会全般に劇的に波及し ている。「しんぶん赤旗」に見え る
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| 出版と学習支援の研究所 | ||
著作権 西尾文化研究所1997設立Ò![]() ![]() ![]() ![]() ![]() --平成21年。 | ![]() (1 Jan,2009) | |
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ほとんどの現実は、私たちを避けてサーッと通り過ぎてゆく。だから、私たちは目前のことに没頭できる。幸せにも、脇をかすめていった現実を、振りかえって見直すとき、自分との距離がどれほどだったのか。それを測れる地図づくりでこの記録がはじまった。これは世界の断片のコレクションといえる。若い人々にとっては、将来出会うだろう現実のバランスよい見本となるように心がけて放送する。どのような職業に就こうともあなたが身につけるものが「服よりも福」であるような人生の優秀なデザイナーになるのを助けます。
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平和国際都市文字放送 内容が膨大で全文を 掲載できませんので↓ |
チャンネルC |
[2604]その頃もてはやされていた芸術作品が精密に分析され描写されている。だから、この小説
[2605]は同時にフランスの一時代の絵巻物ないし年代記にもなっている。この作品はジョイスやカフカと並
[2608]世界的金融会社メリルリンチ(MerrillLynch)のトレードマークは「牛」。牛は紀元前3000年以前から農
[2609]耕民族にとってのシンボルであり生活に重要な意味をもっていた。 cf.馬の文化はヨーロッパ北
[2625]化(インド西)。ガンジス河流域は森林化(インド東)。BC1350年頃日時計と水時計登場(エジプト)。
[2629]る回数は身分により差があった。 cf.ジャポニカ<13>p.12
[2632]ように住民はゲルマン民族の北欧系であるダーン人(=デーン人)である(日本ではデンマーク人の呼称
[2634]個の島からなる。人口は約500万人。最盛期の11世紀初めにはスウェーデン・ノルウェー・イングランド
[2637]は北欧諸国と結ばれ北欧の一員として行動すること多い。19世紀に入ってナポレオン側につ
[2639]とも繁栄した文化国家を建設した。昔から栄えた商業港コペンハーゲンの名は「取引(ケーベン)の
[2642]自国語で書かれた書物を経済的に出版しうるには、一定の人口をもっていなければならな
[2643]い。デンマークの500万人という人口はほぼその限界に近い。それ以下になると自国語の出版
[2644]だけでは経済的な印刷が不可能となり、言語自身が話し言葉としてしか維持できなくなる。
[2648]ケスを中国では「安息」といった。シリアのエジプト戦争に乗じて独立国家となり、しだいに拡
[2650]都を造営政治的中心となった。文化面では都市を中心とするギリシャ文化の影響は大きかっ
[2651]た。パルティアの発展によって中国とパルティアの隊商路は後にシルクロードと呼ばれることになる。
[2652]これによって中国とローマは結ばれ両国の接触が可能となった。パルティアはローマとときには平和
[2660]シリコンバレーには、1億円以上の収入のある者が18万人いる。 H10.9。
[2662]最近の学説では恐竜は絶滅したのではなく、鳥類として生き延びたとみられるようになっ
[2663]てきた。恐竜の足の指は3本、鳥類の足の指は3本。 H10.9。
[2665]1851年鹿児島藩主で開国派の島津なりあきは、博学的研究所として「尚古集成館」を建
[2666]てた。それは各学問の研究所が集まったようなものだった。通信の寺島宗則や紡績の石河
[2669]人間の60兆個の細胞は更に200種類に分類されている。 H10。
[2673]日本の発生生物学の古老・岡田節人(ときんど)博士言「生物学は『普遍』と『多様性(ダイ
[2674]バーシティ)』のはざまで生きている」。大阪にある「生命誌館」館長。副館長は元・三菱生命
[2677]線虫は、体長1ミリ。細胞959個、遺伝子1万個をもった代表的な単細胞生物である。解明
[2678]された点が多く、遺伝子の研究には役立っている生命体である。 H10.9。
[2680]好奇的情報は「すべて」を「完璧に」伝えなければ感謝「されない」が。警報は「一部で」
[2684]同じスタートラインから始めることを何度でも代金を払うリピーターは中毒である。マニアは同じスタートライ
[2687]『哲学するとは、自分の平手(ひら)で測量(はか)ることである』。(自分の手の平では
[2688]かることである)。平手(ひら)で測量(はか)るとは、『独自のカテゴリー体系に収める』と
[2692]民主的な一般的な教育は、残念ながら常に後手である。なぜなら、現代の利害に言及でき
[2704]「霊長目としての『人類の遺産』は『文化群』と『表現法』である」。 霊長目は、脊椎
[2705]動物・哺乳綱に属する一つの目であり、他の目に比較して著しく違うのは際立った分化を
[2707]ディズニーランドや欧米において、緑色があまり使われていない事実があるとすれば。それは
[2710]日本人の皮膚ガンはこの30年間に3倍に増えている。皮膚ガンの種類は20種程度。昭和43
[2712]には「A」「B」「C」のランクがあり、それぞれ「安心」「危険」「最も激しい」。@基底細胞ガン(腫)・
[2716]14世紀半ばモンゴル帝国分裂。中央アジアでイスラム化したモンゴル人ティムール(1336生ー1405病死)はイラ
[2717]ンのサマルカンドから周辺へ東は明(中国)まで侵出した。16ー17世紀アナトリア高原のイスラムのスンニ
[2721]緑はイスラムカラーで、トルコはブルーである。 cf.サファビー朝の大東都?イスファハーン。シーア派の宗教指導者
[2724]建築家スイナンはトルコのミケランジェロと呼ばれている。大モスク「アヤ ソフィア」(スレイマンモスク(ニエ))。
[2725]生産しない民族は略奪しつづけて生きるしかない。
[2728]ギリシャ。ギリシャ人はエーゲ海地域の先住民(後のアテネ女神へつく女神崇拝)とインド・ヨーロッパ語族に
[2730]した。歴史は二つの侵入の波、東方からのアーリア人の侵入BC20世紀、西方からのドーリア人の
[2731]侵入BC1200年に始まる。第一の波はミケーネを中心にクレタ島のエーゲ文明から影響され栄えたが
[2732]持ち前の好戦的な性格は変わらず古代オリエントに似た古代官僚制王国をしいた(音節文字「線
[2733]文字B」を発明粘土板に行政記録をした。BC13世紀トロイ戦争で疲弊。第二の波ドーリア人は原
[2734]始的でギリシャは大混乱アテネ地方と左隣のアルカディア地方を除き大量の人々が東の海上へ逃れ小ア
[2737]つギリシャ文化が開花するまで250年間は文字の無い(暗黒)時代が続いた。アテネでBC683年戦
[2740]同体としての国家の性格をもっていた点はもっとも明らかである。(つづく)
[2741](つづく)ギリシャ。第一波東のアテネ勢に対する、第二波西のドーリア人は先住民を農奴とし王
[2742]家や貴族(スパルタ人)はBC8世紀頃スパルタに集住し、元老院と全スパルタ人の出席する民会の制
[2743]度をはじめた。スパルタ人は農奴付きの分割地を所有し戦士の性格が濃かった。周辺の民ドー
[2744]リア人は自由人であったが参政権はもたされなかった。東西のポリスには土地をもつ自由農民
[2745]が広く居たと考えられ、後世のギリシャの民主政の成立の根元はこのことに求められる。BC7
[2746]世紀頃には人口増大の結果農地の無い農民が海外へ移住し植民市を建設していった。その
[2747]中には今日のイスタンブール、マルセイユ、ナポリなどがある。ミケーネ時代からの伝承をBC750年頃にホメロス
[2749]ルファベットのもとになる文字を使いだした(cf.表音文字とは異なる前出の音節文字は日本語
[2751]社会の最盛期)BC5-BC4世紀。 「古代・古典」と総称される時代は別名「ギリシャ=ローマ時代」
[2752]といわれる。BC8-4世紀はその早期に属する。 cf.ジャポニカ<5>p.733。 H10.9.15。
[2754]西南アジアのイスラム教徒の遊牧民はラクダの糞を燃料として使うが火力は弱い。中身まで充分に
[2758]テレビのデジタル放送化の目標スケジュール。日本では@CS形式では1996年中に既に「パーフェクTV
[2759]社」が放送開始済みABS形式ではBS-4先発衛星(現在アナログ放送中)が2007年に寿命終了
[2761]波では(1)関東・近畿・中京の三大都市圏でアナログ放送申請期限を2003年中とし2010年に
[2764]波及効果はこの2000ー2010年の10年間で212兆円、雇用誘発効果は711万人とみている。
[2765]BSとCSの差異は、BSが不特定多数向けの放送で電波送信出力が強く国際的に周波数を割
[2766]当てる、一方CSは1対1の通信向けで送信出力は弱く周波数の調整は近隣国との都度の
[2767]話し合いできまる。またBSは番組供給と放送設備会社が同一、CSは供給会社と設備会社
[2768]が全く異なる cf.アメリカ、英国は1998年中にも地上波がデジタル化される予定。 日本の衛
[2769]星放送の歴史は1984年のNHKのBS試験放送、1989年の同本放送であった。現在のBS-4
[2770]アナログ放送中の局はNHK第一・第二、NHKハイビジョン、WOWOW(ワウワウ)である。
[2774](30.3%東海TV)A天うらら(28.6%NHK朝連ドラ)Bはぐれ刑事純情派(27.7%名古屋TV)
[2787]人は同時に二つの立場に立つことはできない.現実をスライスした一瞬一瞬を切り替えて二つ
[2789]現実は継続性をもっているが、真実は断続的なものだ。見えかくれするそのある種の断続
[2790]の周期が判明した時点から、ある種の真実は、現実の一部となるのである。 H10.9.2。
[2791]有為大欲にして空となる。「大我空」。(無我は空とは違い、無為無欲にして空となる)。 文
[2794]教えられるよりは、自分で学ぶ方が易しいこともある。 H10.9.2。
[2795]神の言葉。本当に充分助け合うことが出来るようになるまでは「民主主義」はなくならな
[2796]い。民主主義とはサービス精神のイデオロギーであり、それは代価または義務を必要とするので、
[2799]社会のために生きていることを証明できれば、決して孤独になることはない。 文研
[2809]「新しい」調和の発見>(即調)応力調和・調和応力>遭遇。 水面に広がる波紋は岩に
[2814]は「000#」。 H10.9.22確認済み。
[2820]真空ガラスのアイデアは1913年に公表された。真空が熱を伝えない原理は、真空魔法瓶などに
[2821]よって生活の中にもいかされています。真空板ガラス「スペーシア」はシドニー大学物理学部応用
[2824](ラテン語発音とスペル)ラテン語の発音(特に古典時代の)は大体において母音も子音もその傾向
[2825]は現代のイタリア語やフランス語に近いとみてよかろう。母音は a e i o u とギリシャからの借用
[2827]字はもとギリシャ文字から出ていて、その中でも西ギリシャ文字系に属する。しかし、その発展
[2830]時代までは X までの21字だったが、紀元の初めにギリシャ語からの借用語にあてて Y
[2831]と Z とが加えられた。(もっとも、Zは昔は使用されたことがあった)。本来の字形は
[2832]大文字であって、区別のため小文字は後世に草書体から取り上げられ近代の印刷業者の習
[2834]に用いるのも同じ習慣による。古典期末において常用された字はJUWが無い23字であ
[2836](ラテン語発音とスペル)(つづく)ラテン文字には、K音を表すのに、CとKとQの3文字がある。
[2837]このうち K は特に A字 の前に、C は EとI字 の前に、 Q は OとU字
[2838]の前に使用されて、そのエトルスキー起源を示していたが古典期では K はKalendae朔日以
[2839]外には常用されることがなくなった。また、 Q はもっぱら qu の結合のみに用い
[2840]られ、他の K音はことごとく C で表されるのが一般的である。なお、 IとV と
[2841]は、母音にも子音にも同字形が用いられていた。大体に言ってaとiとeとoは日本語の
[2842]アとイとエとオであり、uはウとイのあいのこの音である。 cf.西図「892ーラ」 H10.9.27。
[2843](ラテン語発音とスペル)(つづく)ラテン語は文学として広く用いられるようになった紀元前3世
[2845]のは紀元前1世紀から紀元後2世紀ころ、すなわち古典時代と呼ばれる時期のものである。
[2847]として広くローマ帝国の圏内に流通し、ローマ帝国の滅亡後は地方的分化を遂げて今日のフランス語、
[2849]ー(Etrusci)人と、共和制(特に後半)時代のギリシャ文化との影響はともに注目されるべき
[2850]で、特にギリシャ語とその文物とは、(ちょうど漢語や漢文化が上代の日本に与えたのに匹敵
[2853]ギリシャ文字は紀元前10世紀頃にフェニキア文字を元に作られ、ギリシャ文字を元にラテン文字が作ら
[2854]れ、ラテン語は多くのロマンス語(今日のポルトガル語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ルーマニア語、エスペ
[2856]自体がラテン系45%、ギリシャ系15%、アングロ・サクソン系20%から成り立っている。ドイツ語は第2次
[2857]世界大戦後までは亀甲文字という文字を使用していた(tkh:ヒットラーの時代だけ?それとも
[2858]それ以前も?)が今日ではラテン文字を使用している。 cf.西図「Visual J++ アプレットプログ
[2862]イツ語と低地ドイツ語にわかれるが、標準共通語は高地ドイツ語に基づいている。かつて16世
[2863]紀から17世紀にかけた時期は、プロイセン王国成立にいたる期間であり、経済の発達が商業
[2866]に、ドイツ民衆に聖書を理解させるためドイツ語に訳そうとしていたマルチン・ルターは方言差のない
[2870]て全民衆の共通語が統一されていった。ドイツ語イディシュとは、ユダヤ人が使っていた特殊なド
[2871]イツ語。現在の言語人口はごくわずかである。第二次大戦前までのドイツ語は、いわゆる「亀
[2872]の甲文字(フラクトゥール)」が多用されていたが、今日では活字体も筆記体も英語と同じラテン文字
[2875]アルファベットの源流は、「エジプト文字」(象形文字)から始まり。次に字形ではエジプト文字に似
[2877]現する17文字の「フェニキア文字」(同系統にはアラビア語やヘブライ語などのセム諸語がある)が現れ。
[2879]計24字のギリシャ文字とした。ギリシャ文字はイタリア半島の古代民族のエトルリア語を綴るのに用いら
[2882]字になったが、今日、ラテン系諸語の大部分は、イタリア21字、スペイン28字など補足や修正を加
[2883]えて使用している。字体上では中世に写本が盛んになると共に小文字も発明された。16
[2884]世紀には印刷術の発明にともない安定した原形が作りだされていった。それに並行して国
[2885]によってはイタリックとかフラクトゥール(亀の甲文字、第二次大戦前までドイツ語に使用)などが発明さ
[2886]れた。ギリシャ文字からはロシア語の記述に使用されているキリル文字などスラブ系の文字も作られ
[2887]た。ギリシャ文字の伝播にはキリスト教布教活動が大きな役割を果たした。H10.11.19。ジャポニカ
[2890]東方世界においては、フェニキア文字の直接の後継者であるアラム文字は、セム諸語およびその他の
[2891]語族の多種多様な文字の原型となった。それらには、現在のアラビア文字、ヘブライ文字、グルジ
[2892]ア文字、アルメニア文字、シリア文字、等がある他、インドにはいって梵字(デーバナーガリ)を生み、
[2893]さらに東南アジアの各種の文字を生みだした。元のフェニキア文字は、南アラビア文字となったのち
[2896]ローマ字とは、文字の一種でふつう英語のアルファベット(=字母)をいう。ジャポニカ<18>p628。
[2898]カエサル(シーザー)が暗殺された直後の内乱に勝利したオクタビアヌスは、元老院の第一人者となると
[2899]共和制国家を形式的には再建したが、種々の権限・権能は彼一身に集中し元首制(プリンキパ
[2901]皇帝以上のものとなり、都市国家理念とは相いれない個人崇拝が生まれ、平和と秩序を回
[2902]復したアウグストゥス(元老院が彼に与えた「尊厳なる者」という意味の尊称)は新しい時代の救
[2903]世主としてあがめられるようになった。ここに都市国家ローマは従来の形を超えた元首制「ロ
[2904]ーマ帝国」としてスタートした。ローマ帝国の皇帝年代表(初代アウグストゥスBC27-AD14。からはじま
[2910]あるほど期待してグラスをさし出す手は増え消費量は増える。瓶の中が残り少なくなってく
[2913]つづけさるには、暴飲させず適量をわきまえた全体の生活サイクルが必要となる。消費量が減
[2915]割って消費を継続させる(金利を下げる)。繁盛する店には、酒に用心深い左利き(一般
[2918]考え方について(=コンセプト)。あらゆるスタイルの創造・創作の根幹は3種である。
[2926]解像度はプロ並みで2倍のスローモーション(ハイスピード)撮影(1秒120コマ)もできるデジタルカメラが
[2930]は94.5トン。北米や中南米、オーストラリアなどの鉱山で使用される超大型建設車両用として開発
[2933]中国の地方テレビ局としては初めて海外を含む24時間衛星放送を、上海衛星テレビ(SBN)が
[2934]開始する。日本を含む東アジア・オーストラリア東部でも視聴可能で毎日日本時間PM11:30からは
[2938]「英語はうまいのに」と苦笑していた。
[2940]文研感「清少納言は、逆説女とbecause娘を併せもった性格だった」。 cf.フェリス女学院の
[2949]の結果、今年4月時点の1営業日当たりの平均取引高は1487億ドルで前回調査より7.9%
[2950]減少。邦銀に対する信認低下が取引高の落ち込みにも影響していると日銀は分析している。
[2951]通貨別では以前よりも円を中心とした取引が増えている事を考慮すると、「東京市場のローカ
[2972]の学者としての最高の地位である大学副総長である。著書には「Tradition and Design in
[2974]Experience」は広範な読者を獲得した。ピンダロスの「Pythian Odes」も翻訳、「The Oxford Book
[2976]された「ライフ人間世界史」(西尾図書館の蔵書によれば日本語版は全30巻予定であったが
[2978]してレオナード・クリーガー(元エール大学歴史学教授で現在はシカゴ大学教授。代表的著書「The German
[2979]Idea of Freedom and Politics of Discretion」。)も協力している。日本語版監修者は村
[2982]紙」があり、訳書にはアリストテレスの「アテナイ人の国制」や、アリストフォネスの喜劇などがある。(つづ
[2984](つづきライフ人間世界史H10.10.6.)日本語版美術監修者は富永惣一(1902年生まれ。東
[2985]京大学文学部卒。学習院大学教授を経て現在国立西洋美術館館長。「ギリシア彫刻」をはじめ
[2986]著書、訳書多数あり。表紙:海神ポセイドン(一説にはゼウス)の青銅像の一部で紀元前5世
[2989]り設立された古典学委員会は、設立の時に次のように宣言した。「いかにすぐれた詩人、
[2990]あるいは物理学者といえども、先人の望んだことなしとげたことを学び、想像の炎を燃や
[2991]さぬかぎり、みずからの才能を十二分に生かして、時代に寄与することは不可能であろう。
[2992]それゆえに、我ら古典学者一同は、”つかの間の命を、広大な宇宙の片隅でささやかに生
[2996]C.モーリス・バウラ言「15世紀イタリアにルネサンスがおこり人々の目は古代世界に向けられた。注目さ
[2997]れたのがローマであった。しかし、学者や詩人は、壮大なローマ文化の背後に、それよりももっ
[3000]されていた時代でさえも、ギリシャ人だけはひとりひとりの人間の価値について人間として
[3001]尊重されるべきだと確信していたのである。それを助けたのは今日にそのまま姿を残して
[3002]いるギリシャの自然であった。面積は島島をあわせても13万平方メートル、イエーメンやフロリダよりも
[3004]まれた堅い石灰岩の山々、無数の島島によって国中が分割されているギリシャでは中央集権
[3005]は事実上不可能だったのである。人々は特定の仕事の専門家であるより、むしろいろんな
[3009]崩れゆく帝国たち。紀元前12世紀初頭以降、エジプトではファラオ・ラムセス3世が侵入者を撃退し
[3015]盛期を迎えたのも紀元前1005年から925年である。インドでは偉大な叙事詩マハーバーラタとラーマ
[3017]広大な領土を維持できたのは中国の周王朝だけであった。 ライフ人間世界史p33.
[3020]ギリシャの歴史時代は紀元前750年に始まるが、それ以前のギリシャ民族の古い呼び名はアカイア人
[3021]である。古代伝説の場所ミケーネは、アカイア人をトロヤ戦争に巻き込んだアガメムノン王の居城のあった
[3025]文化の源流は紀元前1600年から紀元前1400年にかけてエーゲ海に広がったクレタ島のミノア文化
[3026]である。クレタ島のミノア人は明るい色彩やすごろくに似た手の込んだゲーム、優雅な衣装などを
[3029]で比べる文化がないほどであった)。紀元前13世紀頃の時代にはミケーネの貴婦人たちは馬に
[3030]引かせた戦車を仕立てて狩猟に出かけたりしていた。ミノア文化の土木技術の一部はミケーネ人
[3031]に引き継がれ彼らは建築の天才となった。金銀・青銅などの細工も自由に桜花した。ミノア
[3032]人よりは背が高く広い額で男は口髭中には顎髭もはやしていた。 H10.10。
[3034]ギリシャのミケーネ文化には、ぜいたくな食生活を思わせる胆石の形跡のある死体や、ヨーロッパの
[3036]上の命令や決定事項は官僚組織によって下へ伝えられ、文書は粘土板に「線状B文字」(こ
[3037]の文字はやっと1953年に解読されたばかりで成功したのはイギリスのマイケル・ベントリスである。34
[3040]アカイア人は、陽気で享楽的な平和好きなミノア文化の継承者にふさわしい教養と進取の気性の
[3041]持ち主だったが、ただひとつ大きく違っていたのは、戦争や山賊や海賊という略奪行為で
[3042]生活をたてていたのだった。紀元前1300年には軍事的野心に燃え好んで故国を離れ旅を
[3045]る。ある時期には盗まれた姫ヘレネを奪い返すためトロイアの町を包囲して10年間も戦ったと記
[3046]してある)。ミケーネ人の略奪と繁栄の時代は永くは続かず、紀元前1200年になると北方から
[3047]相次いでドーリア人がギリシャに侵入してくるようになった。ギリシャは新しい侵略者であり新参
[3049]ア人は非文明的な人種であった。これ以後450年間(紀元前1200ー紀元前750年)ギリシャは
[3054]社会の絆もくずれ無一物になったアカイア人は放浪の旅路ついた。その放浪民に加わって侵略
[3055]者ドーリア人自身も移動。南下したドーリア人はやがてラコニア平原を侵略し、地中海へ出てクレタ島
[3058]はほとんどが崩壊し去った。アテネは侵入を防げたが、ミケーネ文化の崩壊に続く数世紀の間、ミ
[3059]ケーネと各地は分割され境界線はめまぐるしく変えられた。事実上、軍隊の駐屯地となった。
[3061]市国家を形成していった。軍政府は世襲の君主政府になった。王は神々の血を受け継ぎ神
[3063]は自ら神と言わず国民に服従を強いたりもしなかった。こうして各地に独立の意識が養わ
[3064]れていき、ギリシャ民族は境界・衣服・装飾・方言など地方色を越えて一様の文化的様相を
[3065]現しはじめた。互いに交流も行われた。(つづく)H10.10B。
[3067]スパルタは、ミケーネ時代にはアテネ同様目立たない小村であったが、ドーリア人に侵略され軍事上の
[3069]かれた町になっていった。一方、アテネはドーリア人の侵攻をよせつけず、侵略者の手を逃れて
[3071]ア人の南下にともなって数世紀が経つと、アテネとスパルタはお互いにあいいれない人生哲学を
[3076]アテネが、ドーリア人の侵入を防ぐ事が出来たのは、岩山である天然の要塞アクロポリスのおかげで
[3077]あった。ピロス王の一族をはじめミケーネ時代の各都市からはぞくぞくと難民がアテネおよび周辺
[3078]のアッティカ地方へ流れ込んできた。アテネの人口は限られた土地面積では間に合わないほどふく
[3079]らんだ。アッティカには良港がいくつもあり紀元前1100年前後からはアテネから8キロのピレウス港か
[3080]らギリシャ人移民達はエーゲ海諸島や小アジア西海岸に新天地を求めて移住がはじまった。そし
[3081]てエーゲ海周辺のギリシャ植民地を「イオニア」と名付けた。はじめのうちイオニアの植民地はナクソス、キオス、
[3083]は交易の発展を促した。移住さきの原住民に必ずしも歓迎された訳ではなかったが、町の
[3086]オニアの生活は本土の同胞に比べれば恵まれたもので新しい文化をつくりだす。故国ミケーネやア
[3087]ッティカの郷愁を強く意識し漂わせ、中でもギリシャ本来の叙事詩や物語はイオニア人がそっくり受
[3091]たヘレネス(ヘラス人)という言葉から、彼らの都市国家群に共通な一様な様式はヘレニックとよばれる。
[3092]後に、ヘレニズム文化として定義づけられる知性、政治的自由、文化的調和などの特質は、ギ
[3093]リシャの都市国家間の交流のこの試行的な時代に湧き出てきたのである。「紀元前8世紀には
[3097]紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、ギリシャの多くの都市国家は貴族階級にとっては
[3099]とっては飢餓寸前の世界が広がっており、内紛が絶えなくなる。弱体化した政情につけこ
[3101]ルする変形した貴族政治の時代へと移り変わって行った。ギリシャの都市国家の中でスパルタは
[3103]同じ頃アテネでは紀元前561年ー527年まで有能なせんしゅとしてペイシストラトスが統治し、土地
[3105]リアス」と「オデュッセイア」の決定版をつくらせますますイオニアとの関係を深めアテネの勢威はエーゲ海
[3108]ペイシストラトスの子の代になるとスパルタはアテネ内部に親派を打ち立て内紛を仕掛けてくるが結局
[3109]失敗。これを機にアテネは革命的な変化を起こす。紀元前507年政界名門出身の改革家クレイステ
[3110]ネスによってアテネの憲法が改正された。新憲法では「成人に達した全市民は自動的に民会の
[3111]一員となり公共問題について発言する事を認められた」。アテネの人々は法の前にはみんな平
[3112]等であり、わけへだてない権利をもっていること、言論は自由である事が政府によって認
[3113]められるべし、公言された。民主主義のすべてがあったとはいえないが、のちの民主主義
[3114]にいたる数々の機能がすでにあった。新しく獲得した政治的自由の中でアテネ人は自信と力
[3116]中にした。こんなアテネに軍事都市スパルタは警戒心を抱くようになる。かつて特に目立つ事の
[3117]無かったアテネは今やギリシャ全土を通じてもっとも活気にあふれ強い影響力をもつ一大強国へ
[3118]の道を歩きだしたが、その矢先に中断を余儀なくされる。アテネやスパルタをはじめとするギリシ
[3119]ャの大半の都市国家は「ペルシャ戦争」という大危機に直面した。 西図「ライフ人間世界史」p60。
[3121]ペリクレス(紀元前495ー同429年)アテネの偉大な政治家)言「わがアテネの市民諸君は、あらゆ
[3125]ギリシャ文化の中心だったアテネの市政を紀元前460ー429年にかけて支配した。最初は巨壁で
[3128]中でも最も輝かしい時期であったといえる。この頃のアテネの人口は15万人で、街には中心
[3129]的な地域が2つあった。一つは、アゴラと呼ばれた大きな市場とそこにつづくプニックスの丘を
[3130]含む一帯で、商業・教育・司法の中心であった。アゴラには世界最初の民主政治が行われた
[3131]建物があった。プニックスの丘では民会が開かれた。もう一つの中心は、岩だらけの丘アクロポリ
[3132]スでアテネの街の心臓であった。丘の上には建立以来、世界でも最も美しい建築物と言われて
[3135]古代民主政治の開幕。紀元前443年までに政敵はすでに失脚しペリクレスは自由に腕をふるう
[3136]機会が訪れていた。雄弁であったペリクレスが指導するアテネではあらゆる重要な問題は、年に
[3138]された500人の市民の評議会が毎日開かれた。小委員会は昼夜を問わず行うことができ急
[3141]では全人口31万5000人の内11万5000人が奴隷だった。アテネの黄金時代の民会では、貧
[3142]乏人でも公職に就けるようにし就いた者には報酬を支払う事や、ペルシャ人が破壊した神殿
[3143]の再建を決めた事や、スパルタとの宿命的な開戦を決めた事などが、決定された。ペリクレスは
[3144]歴史から教訓を得て都市国家アテネは本土で領土を拡張するよりも海洋帝国として発展すべ
[3149]アテネの奴隷は他の都市国家に比べれば恵まれていて報酬を与えられる者や、解放される者
[3150]もいた。アテネ人の中にはわずかだが劇作家エウリピデスの言う「奴隷制度。このもともと罪深
[3151]き制度よ。そは人間に対して。およそ人間の従いがたきことを強要する」のように、奴隷
[3152]制度を社会悪と見なす人もいた。後世の知識人の中にはアリストテレス(約1世紀後)言「奴隷
[3153]には奴隷になるべき素質がある」のように制度を正当化したものもいる。(p95)。
[3156]はペルシャ人によって完全に破壊されたアクロポリスの丘の上に、紀元前400年頃アテネのペリクレスは
[3157]数々の今日の遺跡を建造した)。アクロポリスの丘の上のパルテノン神殿はその後約900年間は女神
[3158]アテナの神殿として役割し、紀元前500年頃から1000年後の紀元500年頃まではキリスト教の教
[3159]会として機能し、そのあと一変して紀元500年頃から紀元700年頃まではイスラム教(回教)
[3161]たトルコ人を包囲したベニスの軍隊が打ち込んだ砲弾が火薬庫に命中してパルテノンの内部は破壊
[3164]ペルシャが紀元前492年初めてギリシャに進撃した頃、中国の哲学者孔子は古き時代の道徳へ戻
[3165]るのを強く主張し広まりつつあった。まもなくしてペルシャでは、広大な領土を統治しギリシャ
[3167]スターの信念に基づいた秘教的な宗教ゾロアスター教である。これはペルシャ帝国が崩壊した後まで
[3169]念が広く行きわたった。更にこの頃の中国では伝説的な哲学者老子の新しい教義が中国で
[3171]生まれたもので、人間の救済は人間社会をすてて孤独な瞑想生活にはいることで求められ
[3176]ら、まったく異なった様相を示していたにちがいない。すくなくとも、精神面、想像力は
[3177]もっとみすぼらしいものであったろう。ふりかえれば、イオニアの暗黒時代からはじまり、長
[3178]い道のりを経て、ペリクレス時代のアテネで最盛期に達したギリシャ文明(都市文明?tkh)は、ペロポネ
[3181]たどりはじめた。アテネの没落は他のギリシャ諸国の挫折を招いた。民主主義の旗印のもとに、
[3182]貴族社会の優雅さと美徳とをとりいれて繁栄したアテネは、その行く手をはばむものはなに
[3184]待つ間にも群衆に向かって何事かを演説する騎手。アテネの市民は、みな堂々と意見を述べ
[3187]アレクサンダー(紀元前356-同323年)はギリシャの覇権を4倍に広げ、インドへ到達して以後はペ
[3190]してギリシャ人は小さな都市国家から脱皮し新時代へ入っていった。交易の門戸が開かれ視
[3191]野は開けていったが、同時に、異質な考え方がギリシャに流れ込んできた為に、古典ギリシャ文
[3192]明はアジアの影響によりヘレニズム文明へと変質してゆくようになる。さらにアレクサンダーが亡くな
[3193]るとその後は独立国家としては存続できたが、かつての勢力は薄れ、およそ2世紀後にロー
[3194]マによって征服されると勢力を永久に失なった。しかし、その後も依然ギリシャ文化は拡大し
[3196]クサンダーの生涯は、長かった古典ギリシャ時代の悼尾(とうび)を飾る輝かしい残照であった。
[3199]ヘレニズム(アレクサンダーが没した紀元前323年から300年間)以前の彫刻には若く美しい女性を
[3200]多く取り上げ現実から遊離したものが多かったが、時代が変わり海上の覇権をときにはマケ
[3201]ドニア、ときにはエジプトに奪われるようになり、知的指導力も新しい博物館と大図書館をそ
[3203]いたアテネ自身の芸術はリアリズムを追求する芸術へと進化した。深まってきた解剖学的な知識
[3204]が活用され題材も広い範囲にわたった。(トロイアの戦いの際、ラオコーンはトロイア人に木馬に触れる
[3205]なと密告した。神はその行為を怒って蛇を遣わしてラオコーンの一家を死にいたらしめた。紀
[3209]広い世界に拡大していったギリシャ文化は、かつては宗教的な芸術で簡素なドーリア式やイオニア式
[3212]ネは彫刻から上がる利益で繁栄し、古い彫像のコピー制作までも繁盛した。大量生産された
[3214]代のあらゆる都市はどこでも建築・言語・法律・娯楽などすべてがギリシャと同じであった。
[3215]例えばかつては乾燥した交易中継地にすぎなかったシリア中央部パルミラには、マーケット・元老院・
[3217]庭園・宮殿の数はギリシャの都市よりも多かった。ギリシャ式神殿も建っていた、しかし、古代
[3218]ギリシャにはたそがれが迫っていてそこのギリシャ人のある者は哲学に逃避し、ある者はギリシャ
[3219]式神殿に祭られたよその神、エジプトや近東の神へと次第に心を移していった。2世紀には
[3225]アクロポリスは一度、戦争で破壊されたが再建された。
[3227]パルテノンは、今は廃虚だがそれでも2400年前の姿をはっきりとどめている。建立後の約900
[3228]年間は女神アテナの神殿であり、その後の1000年間近くはキリスト教の教会、それから200年間
[3229]は回教(イスラム教)の寺院であった。1687年トルコとベニスとの戦いの際、アクロポリスに立てこもっ
[3230]たトルコ人を包囲したベニスの軍隊が打ち込んだ砲弾が火薬庫に命中しパルテノンの内部は破壊さ
[3231]れてしまった。女神アテナは華麗な衣服をまとい、右手の上にあるのは勝利の女神ニケの像、
[3232]頭上にはスフィンクス、胸の上には象牙製のメデューサの首が飾られていた。 cf.ライフ人間世界史
[3245]神話や伝説には元の起こりがある。地形や地質などの地球科学の知恵をもとに光を当て想
[3247]のは地質学で突きとめられているが、哲学者プラトンが書き残した、地上の楽園とされた大
[3248]陸が一夜にして海底に没したという「アトランティス伝説」は否定する。プラトンは倫理的な面が欠落
[3250]団を先頭にしてアルプスを越えてイタリアへ侵攻した。当時のコインの図柄からみるとその象はインド
[3258]フランシスコ・ザビエルはハビエル村出身の、バスク人であった。ザビエル城で貴族の家系として生まれ、
[3259]6才で父を亡くし家が没落。19才までそこで育った。 バスク人にとって宣教師と船乗りは
[3260]2大職業であった。マゼランの後、大航海をしたサンセバスチャンはビスケー湾岸生まれのバスク人であ
[3266]リカ男性評論家言「内容の半分はひどく退屈だ」。 H10.10.13。
[3270]している。電子メール用問い合わせシートの問い合わせ先は次のWebまで。
[3272]また、他にバリアフリーをめざした「アクセシビリティWebサイト」では、Windowsのユーザー補助機能をは
[3277]海底には植物のように見えても動物である生き物がいる。 ニュージーランドのプアナイツの「ニコリコ
[3281]一橋大学学長・歴史家、阿部謹也言・社会と個人の関係は、のほんと欧米では全然違う。
[3282]日本人の人間関係は江戸時代とそう変わっていない。独立した人格である個人が集まって
[3283]社会を構成している欧米に対し、日本ではまず「世間」という集団があり、人はそれにつ
[3284]ながって生活している。個人をいう意識は、ヨーロッパでは12世紀に生まれた。個人とはそ
[3285]れ以上細かく分けられない単位で、最終的には、神と対峙(たいじ)できるような一番大
[3286]事な単位である。世間とは、もとは仏教からきた人間と人間の関係を現す広大な概念だっ
[3287]たが、いまは「世間が許さない」「世間体が」などと使われ日本人の生活規範になってい
[3288]る。そして、それを恐れている。(形のない?)何かを恐れて暮らす民族なんて、欧米には
[3289]ない。部落差別を存続させている原因の一つは、世間に縛られる日本人の人間関係にある。
[3290]差別する側にも差別する側にもそうした意識はあり、すぐには変わらないだろう。一方で
[3291]人権・平等・自由といった日本の民主主義のもとが空洞化しつつある。「民主主義とはな
[3292]にか」と、原理原則にかえって考える事が必要ではないか。・ H10.10。
[3298]サンスは人々の世界観や活動を大きく塗り変えた。 H10.10.11。
[3299]西尾文化研究所
***個人は自分自身を磨くことを決して忘れてはならない。どこにいても、そこで必要な能力以外が育てられることはないのだから。良質な知識を通して自立した個性を実現し、視野の広い情報に接触して深い感性を身につける、「知覚技術」の研究をつづけています。出版と学習援助の研究所 著作権 西尾文化研究所1997設立 The Nishio Cultural-Studies Center Nishio-city,愛知県,JAPAN。***
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